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クレイン・トータス新聞

トータス新聞1面記事

コロナ禍の中で

2020-07-01
 世上はここ数ヶ月間コロナ一色に染まっている。猫も杓子もコロナ、コロナである。朝から晩までと言ってよい程メディア、マスコミは洪水的情報量で迫ってくる。
 致し方のないことである。この現象は今を生きる我々にとって、これまでに経験したことのない未曽有の大事件である。大袈裟に言えば人類の存亡までに及ぶと。
 新型コロナウイルスとは一体何者なのか。空恐ろしい限りである。医学や衛生学的なことに全くもって無知な私にとっては未知の領域であり、このたび初めて耳にするワードである。まだまだ生への執着心がある者として、単に無関心という訳にもいかず、関連する報道や文献等に目を向けることになった。そこで多少なりとも知り得たことであるが、このウイルスは肉眼では目にすることのできないマイクロサイズの粒子で、空間では補足することが困難な生き物であるらしい。例えて言うなら忍者みたいな存在であると、そんな物言いをする専門家もいるのである。何年か前に韓国や中東地域で発生したサーズやマーズよりも一段も二段も厄介な難物でもあるようだ。ウイルスや細菌による疾病の歴史は、1万年前に人類が狩猟社会から農耕社会へと切換えた時に野生動物を家畜化したことによるらしい。
 古くは中世ヨーロッパにおいて大流行したペストがあり、当時のヨーロッパ人口の3分の1程の人々が亡くなっている。その数は2千万人とも4千万人とも言われている。魔女狩りという言葉は聞いていたが、当時のペストによる風評被害の一端ではとの説もある。また1918年~1920年にかけて、世界規模で致死者が続出したスペインかぜである。我が国ではペストは発生しなかったものの、スペインかぜでは約45万人にものぼる犠牲者が出たのではと推測されている。その他にもコレラやはしか等々恐ろしい感染症の数々が人類を蝕んできたことが、歴史上の事実として文献に記されている。これらの実態を知り、知見のなかった私には大変な驚きであったのは当然であるが、同時的に偉人のワクチン発見による英知が、これらの疾病を克服してきたことも歴史の事実である。そのお陰で我々人類は連綿と今日まで繋がり続けられてきたのであるが、このたびのコロナは如何になるのか。いずれこのコロナに効くワクチンが開発されるとの観測もあるが、明確な見通しは今のところ立っていないようである。そのようなことで、まだまだ予断を許さない状況下にあり、世の中は依然として先の見えない靄のかかったような閉塞感に包まれている。私どもの法人においても然りであり、利用者や家族にはもちろんのこと職員にも相当の不便や負担を掛けている。その一つが、昨年のうちからインフルエンザ対策としての面会制限であり、かれこれ半年にもならんとしている。誠に心苦しい限りである。また職員には、クラスターの発生源に陥り易いということから特段の自重と自戒を求めており、平常時に比べ相当のストレスが溜まるであろうストイックな生活を強く心掛けてもらっている。何時までもこんな禁欲状態を続ければ一筋が見えてくるのか。現段階ではその目安は暗中模索にあり、なかなか厳しいものとなっている。ましてやそこまで来ているうっとうしい梅雨の時季と相俟っては尚更辛いものがあろう。ただここを抜けるとその先には眩しい真っ赤な季節の到来である。
 私は今もってこの夏が好きである。そうは言っても青春時代までの情熱は無いのであるが、私と読み手、双者の気分転換的な気晴らしにでもなればとの思いから、昔日の特に夏の思い出を取り留めもなく綴ることとする。幼少だった頃の田舎は、幼稚園とか保育所は無く、毎日のように家の周りを初めとし野山や小川などへ行って、唯駆けずり回るのが殆どであった。小学生時代、夏になるとガキ大将を頂点に大勢の子供達が集団となって、軍隊ごっこや鬼ごっこに興じていた。夜が漸く   明け、朝日が白むかけると、近在の林などでのカブトムシやクワガタ、私の方ではセイカチと言っていたが、オッタッタオッタッタと叫びながら太い樹々を揺らしていたのも夏の風物詩の1つであった。また日中には養老川支流へ行って、篠竹で作った手作りの仕掛けでの鮒釣り、飽きるとカスミ網による小鳥の捕獲、時には原色の鮮やかなカワセミが掛かることもあった。飽きもせず同じ事の繰り返しであったが、それは恐らくお金を使わない遊びしか出来なく、仕方のないことだった。それでもそれはそれは当時の年端も行かぬこどもにとっては本当に楽しい日常であった。高学年になると野球の真似事的な遊びを部落の空き地や学校のグラウンドに行って、夢中になってボールを追っていたことや養老川本流での我流泳法により夕方近くまで泳ぎまくっていた。そんな或る時、兄弟で水遊びに来ていた小学1年位だった弟の方が、いつの間にか行方が分からなくなり大騒ぎになった。泳ぎと度胸には多少の自信があったので、深みの所を探していたら私の足に異物が当たった。急いで兄貴的な人達を呼ぶとそれが沈んでいたその子であった。発見が少しでも遅れていたら、もしやの危急的寸前であったらしい。
 このことで全校生の前で表彰され、家族からも厚い感謝の意を受けたのである。中学生となるといろんな面での兆しも出始め、楽しみの幅も広がり、小遣いも今の子と比べればほんの僅かであるが、それを握って当時の房総西線の味を覚え出したのである。更に高校に上がると一段と生意気度が増し、青春時代の端くれに入ったような気になり、時には東京方面までも出掛けるようになり、色気づいたこと間違いなし。まだこの頃は将来のことを大して考えることもなく、夏になれば保田や勝山の海で淡い思い出づくりに邁進していたが、美魚はさほどに釣れず、苦い一夜干しもあったやも。さすがに成人を迎える頃になると親の庇護からの独り立ちが脳裏を掠めてくるようになった。それでも時には今が、ザ・青春だと言い聞かせ、ポン友達との交友に耽りもしたものである。
 丁度この頃、夏ではなかったが、思い出深いこととして、1964年の秋にアジア地域で初めての東京オリンピックが旧国立競技場をメイン会場に開催された。その最終日にはおきまりの男子マラソンが行われ、仲間7~8人程であったと思うがJR千駄ヶ谷駅近くで応援がてら見物したことが急に甦った。確か銅メダルに輝いた円谷選手がその場では第2位を力走していた。あの時の競技場からの大歓声が50年以上経った今でも耳に残っている。首を傾げた独特のフォームの君原選手の順位は10位以内だったと思うが定かな記憶ではない。働き出してからの夏は職場仲間と毎年のように那須や軽井沢方面へ大体3~4泊程で出掛け、互助会の借上げた別荘的な雰囲気の建屋にてほぼ終日、どちらかと言うと退廃的バーチャルの世界に浸りながら過ごしたのである。その後の夏はリアルな生活感が発現する物語となる恐れありということで本旨にもとる横道はこの辺で止めたい。
 さて、長らく続いているコロナ禍もここへ来て漸く小康状態となりつつあり、一息つける状況でなないだろうか。兎にも角にも闇のトンネルから一時的にせよ抜け出せたことは、どなた様も安堵心でほっとしたことと思われる。このまま何とか収束へ向かってくれることを祈らずには居られないのであるが、世界情勢からするとなかなかそうも行かない様子でもある。むしろ拡大の方向へ向かっていると見る向きもある。そんな中で我が国の流れは世界の7不思議であるように論評されている。国民の高いコンプライアンス性や死生観によることが大きいのではと思われる。長い歴史の中で培養されたお上の言うことは守る、死は穢に通じる等々、色々な要素はあるだろうが真面目で純粋な心根の国民性が拡大への歯止めとなっているように思えるのである。このことは間違いなく我が鶴心会の面々にも脈々と流れていることであり、この大騒動に対して、ルールを逸することなく常に平常心をもって黙々と対応してくれた。何ものにも代え難い感謝の念のみである。唯前述にもあるように決してこれでピリオドではないことは皆々も承知しているだろうし経済とのバランスにもそろそろ意を注がなくてはならない。従ってこれからも法人として今までに増してのソフト、ハード両面での備えを充実させていかなければと思うものであり、職員へはいつ何時に事があっても心構えと覚悟を持ち合わせて頂きたいと願うものである。

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施設長 齋藤武
 
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