クレイン・トータス新聞
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漢方の話 其の二
2026-04-01

今回は、漢方を理解するために、必要と思われる事柄について、出来るだけ簡単に説明する事にする。しかしその前に、先月の3才男児の手術例について、その後のエピソードを少しご紹介しておく。私がクレインに来てしばらくしてからである、この手術例について話す機会があった。その時、クレインで介護士として働いている齋藤美雪さんが、その児は私の弟ですと言ったのである。聞けば2才年上で当時の事も覚えていると言う。その後弟は、心臓に少し問題が出た事があったが、その後は元気で現在は調理師として働いている。62才ということで術後59年を過ぎた。世の中には縁という言葉があるがこれも一つの縁と言えるかも知れない。
今月の話に戻る。漢方とは、その名の示す如く漢の医学である。元々日本にあったものではない。最初は朝鮮を通して伝えられたが奈良・平安時代になってからは、遣隋使、遣唐使などの交流を通して直接中国から伝えられた。現存する日本最古の医書「医心方」は平安時代(984年)に丹波康頼により編纂された。この時代は、隋、唐医学の模倣が主であったと言われ、この後室町時代の中期に白河の人、田代三喜が明に行き金、元の医学を学んで日本に持ち帰った。後世、金、元の大家と称せられた。李東垣(りとうえん)朱丹渓(しゅたんけい)の名を取って李朱医学と呼ばれたもので
三喜の高弟の曲直瀬道三(まなせどうさん)が受け継ぎ、ここから全国に広がったと言われている。ところで、金、元および明の医学は、中国の三大古典の一つ「黄帝内経(こうていだいけい)の全編に一貫して流れる古代中国の哲学思想「陰陽五行説」を基盤とした観念論的色彩の濃いものであるが、道三はしっかりした見識をもって、実用的で簡約なものに改めたといわれている。そして、この医学の流れが、この後江戸時代に越った古方派に対して、後世方派と称せるといわれているものである。古方派とは、後期後漢の人、帳仲景が著したと言われている「傷寒論」を最高に重視し、ここに医学の原点を求めようとある流派である。江戸時代の中期以降の医学はこの「傷寒論」の精神に帰れと主張する古方派により大勢が占められた。ここでは、代表して吉益東洞(1702~1773)についてだけ紹介ておく。東洞の生国は現在の広島であるが、19才の時に京都に上った。44才までは大変な貧乏で、内職に人形作りをしていた。その時に、当代の第一人者として京で名声を博していた山脇東洋に認められ、漸く世に出る糸口を掴んだと言われている。ここからは私の私見であるが、東洞は、常識では測るのが不可能な、飛び越えた逸物、大物である。
東洞の医説は「万病一毒説」で「万病は唯一毒、衆薬は皆毒物なり。毒を持って毒を制す、毒去って体佳なり」と主張した、かくして強い作用をもつ薬剤を用いて病を攻撃した、もしそのために激しい反応を起こした時は、それを瞑眩といい、病に薬が命中した時には、必ず毒によって瞑眩して病が治ると説明した。瞑眩について、東洞の「医事惑問」という書物に、慢性の胃腸病がたった一日分の薬で瞑眩を起こして治った例をあげている。水の様な下痢が続き、嘔吐もひどく危篤の状態になる患者に生姜瀉心湯(半夏瀉心湯の中で乾姜を半分にし、生姜を加えたもので本元は穏やかな薬)三貼を用いた後、ひどい嘔吐と下痢があり病人は気絶してしまった。家族はもう死んだと思ったが、東洞にもう少しこのまま様子を見る様にと言い帰ってしまった。するとその夜の12時頃、病人は夢からさめたように眼を見開き親族が集まっているのはどういうわけかと聞いた。皆は驚き、もう死んだと思って集まっていたのだと言うと、病人は昼頃はひどく吐いたが、その後は少しの苦しみもない、もはや気力も良くなったのでお帰り下さいと言って皆に帰ってもらった。この後、病人は腹がすいたと言って茶漬けを3椀食べ、快く寝た。翌朝はますます丈夫になり長年の病を忘れてしまった。この様に東洞は、病人の生死を越えた思い切った治療をし、大胆、剛腕で自分の治療に絶大な自信を持っていた。又、現在の腹診の創始者でもある。しかしながら、東洞の唱えた「天命説」は、徳川時代の医者に、もっとも激しい論争を巻き起こした。「天命説」とは、医者のつとめは病苦を救うに有り、その病人が死ぬか生きるかは天のつかさどるところで、医者のあずかる所ではないかと主張したのである。
現在、もっともメディアに攻撃される考え方であるが、当時でも反対派の鋭い圧力があり、アンチ東洞派の亀井南冥は「天命はしらぬと言うが命つきて病なおりてきつい迷惑」という歌を作って東洞をからかっている。又、東洞は多くの著作を残しているが「方極」「類聚方」「薬徴」は特に有名で、三部作と称され、現在もその輝きを失っていない。東洞は、理論は一切無用であるとし、李朱医学の基盤となっていた陰陽五行説を無用の説として捨て去り、簡約な治療体系を創造した。このための一説にはその門人は三千人にも及んだと言われ、東洞の古方派は一世を風靡するに至った。それでも、和田東郭のように、古方派にも偏せず後世方派にも片寄らず、双方の長をとって折衷の道を歩んだ人もあった(折衷派)。古方派が京都を中心に、関西に起った頃、考証学派と称せられる一派は、江戸中心に関東に起った。考証学の本拠は幕府を背景とした「江戸医学館」であり、統率者に多紀家があって、代々学者が続いた、私の千葉大の同級生で鎌ケ谷で開業していた故多紀英樹君こそその多紀家の直系であった、漢方の診療にも熱心でバラを愛した紳士であった。眞に早世が悔やまれた人物であった。続く!
クレイン医師 中村 常太郎





